2005.06.28

私の臨終感

私が、人生の中で初めて人間の死と向かい合ったのは、7歳の時だった。
母方の祖母が亡くなった時であった。

7歳の時だったから、あまり詳しく経緯を覚えているわけではない。
最初に覚えているのは、おそらく学校から帰ってきた夕方、母がひどく焦った調子で「おばあちゃんが倒れたんですって。いまからすぐおじいちゃんの家にいくのよ」と言い、父が帰ってくるのも待たずに、私と幼い妹を一緒に連れて、車で1時間弱の母の実家までタクシーで飛ばしたことだ。
母の実家についたとき、祖母は、居間に敷かれた布団の上に、目を閉じて身じろぎもせず横たわっていた。あとから聞いた話ではなく、その時の記憶では、祖母は夕食の支度をしている時に、突然「あーっ」と言って倒れ、意識がなくなったのだという。その前、午後3時くらいから、強い頭痛を訴えていたという。脳溢血ではないか、と開業医をしていた祖父はみたてた。

今の知識ならば、まず症状からクモ膜下出血で間違いないだろう、とわかる。当時はCTなんてまだないから、確定診断するためにできることは、危険を冒して髄膜の穿刺を行うくらいだっただろう。
そして、祖母の症状は、現代の医療技術でも救命率が決して良くはない、もっとも重症の状態であった。破裂と同時に意識が全くなくなるタイプのものは、致死率が大変高い。ましてや当時の医療技術では、まず救命は無理だっただろう。
そこまで祖父が分かっていたのかどうかは、不明だ。祖父は80過ぎまで十分に生きたが、私が医師になった時には病床にあり、ほとんど会う機会もなくなっていて、祖母の亡くなった時の話をする機会はなかった。

救急車は呼ばれなかった。祖母は自分の家にとどまり、居間の布団に横たわり、意識が戻らぬまま、時間を過ごした。
祖父は医院の仕事があるので、昼間はずっとはいなかったように思う。仕事の合間に家に戻ってきていたように記憶する。代わって、嫁に出た者も含めて、4人の娘たち(私の母もその1人だ)が集まってきて、祖母の世話をした。食事はとれないから、昔ながらの大きなガラス瓶の点滴がつながれた。下の世話も必要なので、母たちはかわるがわる、尿瓶をあてていた。あてただけでは尿は出ないので、膀胱のあたりを手で押して排尿させていた。おむつをあてていたかまでは記憶がない。

やがて、居間に巨大な機械が持ち込まれた。人工呼吸器であった。
今のものは小さくポータプルになっているが、その時に見たものは、とにかく巨大で、ごつい代物だった。大人の背ほどもあるように記憶しているが、それは私が小さな子どもだったから、の勘違いかもしれない。
人工呼吸器から太いチューブが伸び出し、その先に、マスクがついていた。そのマスクが祖母の口と鼻にあてられ、紐で顔に固定された。ふしゅー、ふしゅー、と規則正しい呼吸器の音がする。

子どもたちは特別やることはなかった。めったに会えない遠方のいとこと会えたので、楽しく遊び回った。外に出かけることはできなかったが、大きな家だったので、遊ぶ場所には事欠かなかった。女手もたくさんあるので、食事やおやつも問題なくもらえた。
普通と違うのは、居間に寝ているおばあちゃんの様子、そして居間の様子、まわりの大人たちの様子だけだ。おばあちゃんは何か重い病気なんだ、脳溢血なんだ、ということはわかった。そして、その様子から、たぶんおばあちゃんはこのまま死んでしまうんだろう、となんとなく分かっていた。時々、母が泣きそうになっていた。
病院へは連れていかないんだなぁ、とは少し思った。きっとおじいちゃんが医者なので、おじいちゃんがおばあちゃんを診てるんだろうな、と思って納得していた。

1週間ほどたって、その日はやってきた。
祖母が亡くなった瞬間、自分から見る限り、特にそれまでと様子が変わったこともなかった。だが、周りに集まった祖母の子どもたちは泣いた。祖父がどうだったかは記憶がない。あとから考えれば、死亡診断をできるのは祖父だけだったはずなので、その場にいたはずなのだが。
私は、おばあちゃんが死んだんだな、と分かった。悲しいとまでは思わなかった。まだ悲しくなるほど死について実感していなかった。当時3歳の妹は、死そのものが分からず、はしゃぎながら祖母の布団の周りをぐるぐる走り回っていた。それはよく覚えている。

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